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『RALLY CARS 06』(三栄書房)

SUBARUブランドで知られる富士重工社の社運を賭けて発進したレガシィは、その期待に応えて死に体寸前の同社を不死鳥の如く甦らせました。

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国道や高速道路ではフェアレディZやスカイラインやソアラやスープラが幅を利かせ、峠ではハチロク・シビック・CR-X・スターレットターボが流行った時代に自動車・モータースポーツに熱を上げていた若者の一人であり、あの熱い時代を生きて当時を知る者として歯に衣を着せず端的に述べるならば、あの頃SUBARUの車を欲しがる若者は皆無に近い状態でした。

(グランドシビックやシビックフェリオがバンバン走っているご時勢に、同じ金額を払って角々デザイン止まりなレオーネの需要を期待する事の方が無理なハナシな訳で…)
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80年代半ばから進展のないデザイン・馬力で大きく劣るエンジン・重たい車重・スポーツカーとはほど遠い操縦性とコーナリング性能・何よりディーラーが少なくてアフターサービス面での信頼性と誠意を感じられない販売姿勢…。
余程のコアなファンならいざ知らず、一般的なユーザーであれば独身の若者に限らずファミリー層の大人であっても手を伸ばす人は余りいませんでしたし(今と違ってまだ自動車の故障が皆無ではなかった時代なので、ユーザーはディーラー網とアフターサービスの体制にも敏感でした…)、中には「やる気の無いメーカーはさっさと潰れろよ…」などと酷い事を言う若者も決して少なくありませんでした。

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そんなある日、その車は突然現れました。

「10万km耐久走行における平均速度223.345km/h」という華々しい国際記録を達成し、「もうセダンなんてどんなに高級車でも所詮はダサいオッサン車だよ」とそっぽを向き始めた若者達が「今まで何処に隠してたんだよ!」と飛び付いた、当時としては十分にエレガントなデザイン。
そして血気盛んなモータースポーツファンを喜ばせる「ワークス体制でのWRCフル参戦」というニュースを引っさげて…。

(このやる気を今まで何処に隠してたんだ!)
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現在のスバルを知る人達にその後の展開について説明する必要は無いと思いますが、このレガシィを基軸としてスポーツ路線のインプレッサやアウトドア路線のレガシィ・ツーリングワゴン・他や高級路線のSVXなど、同ブランドは立て続けにヒット車を飛ばして一躍〝若者が憧れるSUBARU″へと変貌を遂げました(SVXは決して数多く売れませんでしたが非常に評価の高い車でした)。

同じ頃に花開いたアウトドアブームと相まって、高価なレガシィツーリングワゴンでバーベキューやスキーなどのアウトドアに繰り出すのが最高にナウい… オシャレだという風潮さえ出来上がり、銀行から役員を受け入れて日産社の下請けに甘んじていた死に体寸前の乗用車部門は、一転してドル箱部門へと生まれ変わって現在に至ります。

(当時は〝オッサン臭い″の代名詞だったセダンなのに品があってカッコイイ…)
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(当時は〝ダサい″の代名詞だったワゴンなのにオシャレでカッコイイ…!)
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この復活劇の発端となったのは同社のエンジン開発部門のある人物だったのですが、レガシィを通じてブランド価値そのものを大きく変貌させて成功へと導いたのは、WRCでのワークス活動を通じた実績に裏付けられた新しいブランドイメージに他ならないと考えています。

そして後に掴む事になるWRCメイクスタイトル三連覇という華々しい実績とその評価への出発点として、一番困難な時期に〝道を付けた″功労者として忘れてはならないのが、最初にエースドライバーとしてそのハンドルを握ったマルク・アレン氏であり、ラリー活動も含めたSUBARUファンならばこの名を知らない人はモグリだと言っても差し支えないでしょう。

(このインタビュー記事に釣られて買っちゃいましたよ…)
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今回はこのマルク・アレン氏と当時のWRCについて述べてみたいと思いますので、本の内容や本文に絡めた車輌の話をするつもりはありません。 本の内容に興味のある人は本屋さんで求めるなどしてご自身で読んで下さい。(←無責任)

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一般の方にはあまり知られていないとは思いますが、WRCにおけるSUBARUのワークス活動と言っても実は富士重工社はほとんど関わっていません。 名目上の子会社としてSTI社(スバル・テクニカル・インターナショナル)というモータースポーツ会社を設立して、この会社にラリー活動をプロデュースさせたのですが、このSTIという会社も実は単なる企画会社みたいなものでした。

ラリー参戦に向けて創立されたSTI社の本業は、富士重工社の営業上で発生するクレームや修理の関係で止むを得ず請け負わざるを得ないエンジンリビルドを肩代わりするという下請け事業であり、名目上はその売り上げで自社の経費を賄うというモノだったと言われています。
もっとも、そのエンジンリビルドの具体的な作業は少なからず外部の個人に委託していたようで、盛豚と同じカテゴリーのレースで全国区のトップを争っていた人物の中には、コンスタントに年間百基以上を請け負って資金源にしていたと言われる人物もいましたけどね…。(苦笑)

(この頃からプライベーターじゃなくて事実上は看板を出してないだけのプロやん…w)
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SUBARUのWRCワークス活動には富士重工社もSTI社もほとんど関わってないみたいな事を書いてしまうと、熱烈なファンの方からお叱りを受けてしまうかもしれませんが、モータースポーツにおける自動車メーカーのワークス活動なんてモノは多かれ少なかれそんなモノですので、気にする必要はないと思います。

例えばこの時代にWRCを席巻していたランチア社のワークスチームにしても、親会社である巨大企業フィアットグループ内のモータースポーツ会社であるアバルト社が請け負っていました(事実、当時はアバルト社に行ってお金を出せば、ワークス仕様のランチア・デルタが買えたそうです…)。

また、昔ル・マン24時間レースを制覇したマツダ社についても、優勝の翌年はレギュレーションの関係で自社製のロータリーエンジンでは出場できなかった関係から、MXR-01にはレーシングエンジンコンストラクターのジャッド社にお金を払って開発して貰ったレシプロエンジンに共同開発と称してマツダのエンブレムを刻印して搭載していたに過ぎませんでした(SUBARUのF1エンジンも同じパターンでした…)。

近年のル・マン24時間レースでアウディ社のマシンがやたらと強いのも、ワークスチームよりも強いル・マンの鬼と言われるヨーストレーシング社(ポルシェワークスの911GT1を破って優勝した『ヨースト・ポルシェ』のヨーストね…)に指示を仰いで作ったル・マン仕様のワークスマシンを供給して、本戦のレースも請け負って貰っているからであって、何もアウディ社が自らル・マンでレースをしている訳ではありません。

「イカサマやん」と思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、自動車メーカーによるモータースポーツへのワークス参戦などと言うものは多かれ少なかれそんなものです。

(ル・マンで連覇してるのはメーカーじゃなくてヨーストレーシング社のノウハウと体制なんですわ…)
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SUBARUがWRCに参戦するにあたって何が良かったかと言うと、まず本気でタイトルを狙って辛抱強く取り組む覚悟があったという事と、体面に固執する事なくFIAに対して「ウチもワークス参戦したいんだけど、前線でラリー活動をやってくれるパートナーを紹介して欲しい」と素直に相談した事と、そのタイミングが良かったという事が挙げられます。

実はこの当時、新興勢力ながら実力派でありBMW社の事実上のワークス・ラリー活動に相当する活動を請け負っていたプロドライブ社が、BMW社との契約期間満了を間近に控えて新たなパートナーとなるメーカーを模索していました。

(プロドライブ社はホワイトボディーからラリーカーを製作するほど筋金入りのラリー会社です…)
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Gr,A時代前半の「ランチアの牙城」と呼ばれていた当時を知る人ならご存知だと思いますが、最強ランチア鉄壁の牙城にもマッドグラベルの『サファリ・ラリー』とオールターマックの『ツール・ド・コルス』という二つのアキレス腱(なかなか勝てない一戦)がありました。

そして新興のチームながら後に〝M3使い″として知られる事になるパトリック・スナイヤーズ選手やベルナール・ベガ選手やフランソワ・シャトリオ選手やマーク・デュエツ選手といった非ワークスドライバーを積極的に起用して各地のラリーで暴れ回り、4WDターボのワークスマシンに対して非力なRWDのNAマシンで果敢に立ち向かって、特にこの『ツール・ド・コルス』ではワークス・ランチアをも打ち破る勇猛果敢なセミワークスの雄…、それがプロドライブ・BMW-M3でした。

(コルスではワークス勢を抑えてトップを快走する、プロドライブ社製のバストス・モチュールM3!)
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スバルワークスとかSTIなどと呼ばれているモノについても、前線でのラリーカー制作・競技への出場をしていたのはレーシングコンストラクターのプロドライブ社であって、SUBARUはプロドライブ社への後方支援をしていたというのが実情です(それを言うならトヨタもオベ・アンダーソン氏のTTEに出資していただけで、ランチアもアバルトに丸投げでしたけどね…)。

しかしながらこのプロドライブ社と手を組んだ事によってSUBARUの未来は大きく開けました。

プロドライブ社は先にも述べたようにワークス勢と双璧を成すほどのノウハウを持っていた事に加えて、ボスのデビットリチャーズ氏は元世界チャンピオンのアリ・バタネン氏のナビゲーターを務めていた人物だった為、ラリー界に広い人脈を持っていました。
その人脈のお蔭で、丁度同じタイミングでランチア・ワークスを離れたマルク・アレン氏をドライバーとして迎え入れる事に成功したのです…。

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マルク・アレン…

この人物はランチア・ストラトスが猛威を振るったGr,5時代から、狂気のGr,B時代、そしてGr,A時代中盤までのどれか一時代でも知る人であれば説明の必要は無い、時代を代表するトップドライバーの一人です。
そしてラリーの歴史上で〝無冠の帝王″といえば氏の代名詞とされています。

この〝無冠の帝王″という二つ名についてもう少し掘り下げて述べてみると…

この有り難くない二つ名を冠する人物によくある例に漏れず、氏は現役時代に通産19勝という多少のチャンピオンをも上回る成績を残して、ドライバーズチャンピオンまであと一歩というシリーズランキング2位・3位というリザルトは六回に及びます。 それにも拘らずタイトルを取れなかった実力者というニュアンスが一般的には認識されている様です(少なくとも日本ではそうでしょう)。
しかしながら氏の名誉の為にもここではあと二つの理由についても明記しておきたいと思います。

まず一つ目の理由ですが…

悲劇と悪夢のGr,B最期の年となった1986年に、氏はライバルのプジョーとの激闘の末に最終戦を終えてワールドチャンピオンに輝きました。
ところがサンレモラリーで可変式サイドスカートの使用を咎められて失格になっていたプジョー・ワークス(あらゆるモータースポーツで可変式空力パーツはレギュレーションで禁止されています)が判定を不服として抗議した事によって、シーズン終了後になってからサンレモラリーの結果とポイントを無効・取り消しにするという、〝後から判定を覆す″というあり得ない裁定が下された為に、氏のポイントが差し引かれてチャンピオンシップのタイトルはユハ・カンクネン氏の物になってしまいました。

この事件は有名なのに詳細記事がめったに掲載されないのですが、プジョー205ターボ16は下の画像にあるボルトで固定されたサイドスカートを外して左右を入れ替える事により、ステージ毎に空力特性を変更してダウンフォースを使い分けていたので(ランチア・ワークスによる告発で発覚)、プジョー・ワークスがレギュレーション違反をしていたのは確かだったのですが、「警告無しにいきなり失格というのは厳し過ぎる」というプジョー・ワークスの訴えが通った形となり(車体に関するレギュレーション違反は重大な違反ですから、「警告無しに失格処分はおかしい」という方がおかしいのですが…)、この裁定の巻き添えを食って理不尽にも一度は手にしたタイトルを失ってしまいました。

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それから二つ目の理由ですが…

日本ではあまり認識されていない事なのですが、あらゆるモータースポーツにおいて元来ドライバーの地位はとても低いものでした(F1では特に低かったそうです…)。 その為チャンピオンシップ制度の歴史が始まってから最初の四年間はラリーでの成績やチャンピオンシップ・タイトルというのはメーカーにだけ与えられる物だったそうです。
やがてプライベート参戦のドライバーや命懸けで走ってタイトルに貢献するワークスドライバーの活躍を評価する意味で、メーカーだけでなく成績の良いドライバーも評価して最も高い成績を上げたドライバーへの功労賞として、FIAカップという賞が設けられる事になりました。
このFIAカップは四年目に制定されて後にドライバーズチャンピオンシップ制度に発展する訳なのですが、このFIAカップを獲得したドライバーの一人が他ならぬマルク・アレン氏であり、〝ドライバーズチャンピオン″というタイトルが制定される前年にそれに該当する賞を受賞している事から、〝王者″に該当する人物であるという敬意を込めていつしか〝無冠の帝王″と呼ばれるようになったのです。

つまり氏の場合は「勝てなかった人」という意味では無いのです…。

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この時代にタイトルを狙う4WDターボのワークスマシンに求められる条件は、一にパワー、二に信頼性、三に操縦性と言われていました。

スピードラリーに勝つには相応のパワーが必要であり(公称300psとなっていましたが実質はリストラクター無しで450~500ps、40mmリストラクター付きでも400ps以上)、そのパワーを全力で叩き込んで何日も走り続けても壊れないエンジンと駆動系の耐久性が必要でした。

(デルタが約350psの時にセリカが約400ps、シエラが約500ps出していると言われていました)
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継続的開発によって既にそれらを積み上げていた他社と違い、後発でエンジンと駆動系と車体の全てが実績の無い新開発のレガシィには、ラリーの実践を全力で走る事によってエンジン・駆動系・車体の各部の初期トラブル・故障をなるべく早く出し切って改良する必要があったので、開発の為にもトップレベルのスピードを有するドライバーの参加はどうしても欠かす事のできない条件でした。

しかしながら普通はそんな実績のない車やメーカーと契約して乗ってくれるトップドライバーなどいません。 大抵はまず二流ドライバーと契約して開発を進めて、そのレベルでの実績ができたところでようやく引退間近の元一流ドライバーに乗って貰え、こうしてもうワンランク上のスピードで走る事でようやく発覚するトラブルをまた潰し、これを大きく二段階に分けて繰り返して何年もかけてタイトル争いをできるレベルまでマシン開発を進める訳です…。

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先にも書きましたがその点でSUBARUはタイミングが良かったというか非常にツイていました。

セミワークスとして実績のあるプロドライブ社が同じタイミングで次のパートナーメーカーを探していた事。
そのプロドライブ社には超一流のヒューランド製ギヤを採用して、ワークスマシンも打ち破った豊富な実績と信頼性のある自社製プロドライブ6速ミッションが既に完成していた為に、駆動系に足を引っ張られる事なくエンジンの開発に専念できた事(要は初期トラブルを出し切るまでの「走って壊しては補強する事の繰り返し」をエンジンだけに専念できたという訳です。 普通はヒューランド社やヴォグゾール社やマニエッティ・マレリ社などの実績ある物をベースに、車重との兼ね合いをバランスさせる擦り合わせ程度の開発をする為に何度もリタイヤを繰り返しつつ改良するのですが、TTEのトヨタセリカGT-FOURの場合はヒューランド社から独立した人物が創立したばかりでラリーでは実績の無いXトラック社製ミッションを使用していた為に、これが強度不足で毎回のように壊れてリタイヤが続いたので、満足に完走できるようになるまで一年半を棒に振りました…)。

そしてこうした「走って壊しては補強する事の繰り返し」の開発を、いきなりトップドライバーであるマルク・アレン氏のスピードレベルで実践できた事…。

(強面だけど冷静で生真面目なトップドライバーのアレン氏を獲得できたのは、まさに値千金でした…)
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当時はラリー界の誰もが「ワークス・ランチアの世代交代により居場所を失ってしまったマルク・アレン氏が、落ち目でとうとう二流ワークス落ちしてしまった」という目で見ていました。
ところがレガシィのデビュー戦となる90年サファリラリーの初日のスーパー・スペシャル・ステージで、氏のドライブするレガシィはいきなりトップタイムを叩き出して「二日目以降の本戦での出走順位・第一位」をさらい、脚光を浴びます。
落ち目だと思われていた〝無冠の帝王マルク・アレン″が、実績の無いマシンでいきなり帝王ランチアや双璧を成すTTEセリカを上回って見せたのですから、非常に衝撃的なデビューとなりました。

結局サファリラリーでは新型車ならではのラリーの洗礼でエンジントラブルに見舞われてリタイヤを喫します。 それだけではなく出場するあらゆるラリーで度々トップタイムを出すなど光る物を見せましたが、毎回の様にエンジンが壊れてリタイヤを喫しました。
これはレガシィのEJ20エンジンがダメだという事ではなく、パワーを上げて壊れてリタイヤして次回は改良して臨むという事自体が開発作業の1サイクルだったに過ぎません(トヨタ社の場合は国内のGr,Cなど周回レースで先行してこうしたトラブルを出し切って予め潰しておくという手法を取っていましたので、ラリーでのエンジントラブルは比較的少ない方だったと言われています)。

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SUBARUのドライバーと言えば故コリン・マクレーというイメージが強いかもしれませんが、Gr,A仕様エンジンとしての信頼性を築き上げる故障・リタイヤの繰り返しという一番辛い開発の時期を請け負ったのは、このマルク・アレン氏でした。
その辛い時期を乗り越えてパワー的な課題はまだ残っていたもののようやく完走できるエンジンができ上がった頃に、故コリン・マクレーがデビューしてその後のSUBARUの躍進が始まります。

やがてマクレー&インプレッサの活躍によってSUBARUは悲願のタイトルを獲得し、結局マルク・アレン氏は二年間の契約が満了したところで優勝やタイトルとは無縁のままSUBARU・プロドライブを去っていた訳ですが、SUBARUラリー栄光の立役者が故コリン・マクレーであるならば、その礎を築いた功労者はマルク・アレン氏に他なりません。

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後発でショートストローク故に非力で瞬発力に欠けるエンジンを走らせる為に、マルク・アレン氏は「とにかく常に全開で走らざるを得なかった」と語っています。 その非力を補う全開時間が長くて激しい走りはかつてのフィアット131アバルトでの走りを髣髴とさせ、ラリー界では「アレンが輝きを取り戻した!」と評されました。
そしてこの時に第一線のスピードで走らせ続けて何基も壊れたエンジンを改良し続ける事が、そのまま市販モデルのレガシィとインプレッサのエンジンを改良するノウハウとして富士重工社にフィードバック・蓄積されていき、死に体寸前だったSUBARUブランドの信頼性を向上させる事に大きく寄与しました。

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SUBARU復活の立役者となったのがレガシィならば、それを育てたのはマルク・アレン氏のドライブに他なりません。 そしてその事を知ってかどうかは分かりませんが、現役を引退した氏は齢63歳の今も尚ランチア社と同じフィアットグループに属するフェラーリ社の開発・テストドライバーを努めています。
これはGr,Bラリー時代のランチア社とアウディ社の両ワークスでチャンピオンに貢献し、〝運転の天才″と賞されてその後30年近い年月が経った今も尚ポルシェ社の開発ドライバーを努め、ニュルブルクリンク北コースに多くのコースレコードを残しているヴァルター・ロール氏と同様に、〝別格″としての評価の表れでもあります。

〝無冠の帝王″の帝王たる所以は、ここSUBARUブランドの中にもまたその大きな足跡を残しているのです。

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