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『RACERS TEAM・ROBERTS』(三栄書房社)

ケニー・ロバーツ。 チーム・ロバーツ。 '70年代~'90年代にオートバイのロードレースファンでこの名前を知らない人はいませんでした。

これは当時の最高峰クラスであるGP500でライダーとして三年連続の世界チャンピオンに輝いた不世出の男と、彼が興して後にホンダ社ワークスとヤマハ社ワークスさえも打ち破り世界の頂点に君臨し続けた伝説のチームの名です。

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オートバイのロードレース界でケニー・ロバーツといえば、F1で例えるならエンツォ・フェラーリとコーリン・チャップマンとニキ・ラウダとアラン・プロストとアイルトン・セナとミハエル・シューマッハを足した存在にバーニー・エクレストンの半分を足した以上の意味を持つのですが、詳細についてはさしもの長文好きな盛豚でさえとても語りきれるモノではありませんので割愛します。

※…(簡潔に言うなら「今日オートバイのロードレースに携わっている人間は、ライダー・エンジニア・チーム運営者・メーカーの人員の全てがケニー・ロバーツ氏の足跡を辿っている」と言っても過言ではありません)

三年連続のGP500チャンピオンに輝いてから三年後にGPを引退したケニー・ロバーツ氏は、翌年に自らのプライベートチーム(今風に言うと『カスタマーチーム』ってヤツね。 つまり市販レーサーを買って使ったり、メーカーからカスタマー契約でエンジンやシャーシの一部などを有料レンタルで借りてレース活動するって事です)を結成してGP250に参戦しましたが、資金面を含めた準備不足の為に思うような結果を残す事ができず、翌年は休業・チーム体制の再構築を余儀なくされました。

(GP250にワークスという概念がなかった当時は、クリスチャン・サロンを擁するソノート・ヤマハを始めとする数多のプライベートチームが群雄割拠の様相を呈していました)
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そして'86年、一年間の沈黙を破ってチーム・ロバーツが再登場したのは、プライベートチームにはチャンスがないと言われていたGP500クラスでした。

お金を積んでも特別な信頼関係がなければワークスマシンの貸与契約は得られなかった時代に…、
ワークスマシンがあっても一握りのメジャーチーム意外では入賞は望めないと言われた時代に…、
ワークスマシンの中でもホンダ社かヤマハ社のマシンでなければ勝てないと言われていた時代に…(後にスズキ社も復帰して来て大混戦になりますが…sweat02)、
ホンダ社やヤマハ社のワークスマシンにもワークス仕様とカスタマー仕様という性能の差があって、ワークス仕様はカスタマーチームには回って来なかった時代に…、
同じミシュラン社のタイヤの中でも、ホンダ社とヤマハ社の各ワークスライダーの内の一人ずつにしか供給されない『Aタイヤ』がなければ優勝できないと言われていた時代に…、

チームロバーツはカスタマー仕様のヤマハ社ワークスマシンを借り受けるプライベートチームとして再発進しました。 この時はカスタマー系のプライベートチームながら、モータースポーツ広告への参入の機会を窺っていた『ラッキーストライク』を擁するB&W社という強力なスポンサーを獲得して、格付けで言うならばいきなりメジャーチームとしての体制を確立してきた事で大きな注目を浴びました。

それは同時に丁度盛豚がオートバイの免許を取得した時期と重なったという事もあり、個人的にモータースポーツへの関心が一気に高まった時期でもありました。

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(タイトルに最も近いライダーでありながら二年間ホンダ社ワークスチーム内で冷遇され続けて燻っていた飢狼ランディ・マモラ選手が輝きを取り戻し、弾けるような走りでチーム・ロバーツのヤマハ製ワークスマシンを駆り立ててトップに襲い掛かる!)
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(それまでGPでは無名だったダブルゼッケンナンバーの苦労人マイク・ボールドウィン選手が、開幕から連続で表彰台に立つ活躍でシーズンをスタートする! ケニー・ロバーツ氏がボールドウィン選手を抜擢した理由は非常に興味深いものでした)
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(ハード面でチームロバーツの躍進のカギを握ったエンジニアのマイク・シンクレア氏の整備風景。 氏はホンダ社系のアーヴ・カネモト氏とヤマハ社系のケル・キャラザース氏の二大エンジニアの対決に割って入る、次世代エンジニアとして脚光を浴びる事になります)
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GP500の一年目は一般的なカスタマーチームとしての活動に終止しましたが、翌'87年からは本格的な独自活動が始まります。
ワークスチームもマシンも存在しなかった前年までのGP250では常套手段だった、マシンの独自開発・戦術の独自開発を中心とした総合的な「独自のアプローチによって新しい物に挑戦し、勝てる体制を作り上げる取り組み」なのですが、貸与契約のワークスマシンを勝手に改造する事は通常ではメーカーが許可しません。 その許可を取れたのもケニー・ロバーツ氏とヤマハ社の特別以上に特別な関係の為せる業だったのでしょう。

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以後チームロバーツが使用するヤマハYZRは、一度たりともワークス仕様やカスタマー仕様と同じ仕様になる事はありませんでした。 空力パーツやチャンバー・シリンダーはおろか、後年には要望に応えられないヤマハ社に対してフレームを独自開発して技術をフィードバック・指導さえしたというのは余りにも有名な話です。

ケニーロバーツ氏プロデュースでマイク・シンクレア氏チューンの『チームロバーツオリジナルヤマハYZR』はこのシーズンの後半にワークス仕様の性能を上回り、翌年以降はチームとしてもコンストラクターランキングのポイント内訳でワークス契約のチームを上回り続けて、再参入してきたスズキ社ワークスと最強ホンダ社ワークスさえも幾度となく打ち破りました。

※…(日本ではあまり知られていませんが、ケニー・ロバーツ氏はライダーとしてだけでなく、エンジニアとしても非凡な才能を発揮していました)

その根幹を支え続けたのは前述の「独自のアプローチによって新しい物に挑戦し、勝てる体制を作り上げる取り組み」というケニー・ロバーツ氏の姿勢・信念であり、その信念を共有してそれを具現化するためにハードワークをこなすという姿勢・信念を持ったスタッフ達だったと言われています。

※…(この数年間のマイク・シンクレア氏は多少のGPライダーよりも注目されました)

ここまでに書いた内容は今更この本で読むまでもなく、30年前の当時に国内で手に入る雑誌にさえ書かれているほど有名な事でした。

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('88年にはライダーを二人とも若手に一新。 「前年ランキング2位のライダーを放出した事もあって、発表したら世界中で叩かれた」というロバーツ氏でしたが、しかし事前に当時の『ラッキーストライク』のB&W社へ伺いを立てた時の反応は、「我が社はケニーを信じてケニーを支援しているんだ。 ケニーの好きなようにやってくれたらいいよ」という物だったそうです…)
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(抜擢に応えて初年の序盤には早くも初優勝を飾った『怪物』ことケビン・マギー選手でしたが、その後は下降線の一途を辿りました。 当時は語られる事のなかったその理由について、本文で詳細に書かれています…)
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(抜擢に応え、後に大激戦を制してロバーツ氏に並ぶ三年連続GP500チャンピオンという栄光を勝ち取るウェイン・レイニー選手。 しかしその先に待っていたのは…)
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この本には'84年のGP250時代からチームロバーツのマネージメントを執り行い、後にGPそのものの運営を任される事になるポール・バトラー氏のロングインタビューと、ケニーロバーツ氏のインタビューが掲載されていました。 これだけでも買う価値があると思います。

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'80年代中盤から'90年代前半にかけて、ラッキーストライクの帽子とジャケットに身を包みサングラスをかけてピットウォールに座ってチームを見守るケニー・ロバーツ氏の姿は、GPにおける一つのシンボルでした。

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この本は一つ前の号ですが別冊なのでお店によってはまだ店頭に置いてありますし、バックナンバーも手に入り易い筈です。

当時を知る人には是非読んで欲しいなぁ…。

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