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『RALLY CARS 20』(三栄書房)

セリカGT–Four…。 それはWRCにおける日本車の歴史に大きな1ページを刻んだマシンの名前です。

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「一体いつまで待たせるんだろう? そもそもどう考えてもせめてVol,3までには採り上げられるべき日本を代表するラリーカーなんだけどなぁ…」そう思いながらずっと待ち続けてきたのですが、こんなにも遅くなったところを見ると、次のVol,21辺りでランチア・デルタを採り上げてこの『RALLY CARS 』シリーズは完結するんじゃないかとさえ勘繰ってしまいます(いや、HF–4WD、HFインテグラーレ、HFインテグラーレ16V、HFインテグラーレ16Vエボルツォーネと最低でも4冊出さなきゃならないから、すぐには完結できないか…)。

それ程までにセリカGT–Four(ST-165型)は日本人関係者やファンがWRCの歴史を語る上で欠かすことのできない存在だといえるでしょう。

(「ワールドチャンピオンを生んだ日本車のラリーカーを開発した名エンジニア、カール・ハインツ・ゴールドシュタイン氏のロングインタビュー記事は貴重です)
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WRCにおいてGr,Bカテゴリーが廃止されてGr,Aカテゴリーへと移行になった時にその初年から逸早く万全のワークス・ラリーカーを用意して対応できたメーカーはランチア社のみであり、ライバルのプジョー社やアウディ社の市販車には手頃なベース車両が見当たらなかったことから撤退してしまったりスポット参戦のみの体制へと活動を縮小するなどした影響もあって、その後Gr,A時代の前半は丸ごと “ランチアの牙城” と呼ばれるほどランチア社が絶対王者として君臨する時代となりました。
そんな時代にあって散発的に活動するのではなく選手権の年間タイトルをかけてランチア社に挑んだのが、故オベ・アンダーソン率いるTTE(後に増資されてTMGとなった トヨタ・チーム・ヨーロッパの事です)を前線部隊とするトヨタ社でした。

ヨーロッパの市場における自動車メーカーの戦略としては、法律や文化や言語などが異なる国毎に広報・営業活動をしているとあまりにも効率が悪くなってしまう為、どこか一箇所に費用と人員を集中して注ぎ込む事でヨーロッパ諸国全体への広報・営業活動の効果を出そうと考えるメーカーは少なくありません。 自動車メーカーによるラリーを始めとするモータースポーツへのワークス参戦といった取り組みには、たいていそうした狙いがあると言われています。

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WRCにおけるワークスマシンとしてのセリカGT–Fourのスタートは「厳しい船出でした」などという生易しいものではなく、デビューから一年半の間はことごとくリタイアし続けました。 ごく初期はエンジンブローが何度か続き、エンジンが決まってくると今度はミッションが毎回壊れ続けました。 そりゃあエースドライバーのユハ・カンクネン氏がウンザリしてランチア・ワークスチームへと移籍してしまったり、ファンとしても見ていて嫌になるほど毎回毎回…。

これには理由がありました。 TTEでは他社と同じような従来通りのただの4WDターボ車ではなく、新しい概念のセンターデフで前後輪のトルク配分を可変コントロールできる駆動システムを導入した為でした。
しかもその為には秘密保持の関係上ランチア・ワークスとは別の駆動システムメーカーと提携する必要があり、その独自の提携相手と一緒に一から開発しなければならなかったので、ヒューランド社のような当時既存の最大手メーカーではなく、ヒューランド社から独立して起業したばかりのまだ実績がほとんどなくて無名の新鋭メーカーだったXトラック社と提携した事から、初期トラブルを出しきって軌道に乗るまでにとても長くかかってしまった訳です(ちなみにランチア社の場合は、ワークスマシンを開発・製造するアバルト社がマシン開発の段階でこうした全ての初期開発を済ませて一通りのトラブルを徹底的に潰しきってからラリーカーをデビューさせる為、大抵のマシンがデビュー戦でいきなり優勝するか若しくは優勝争いをして表彰台に上ります…)。

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実績のないミッションというだけでなく製造元が実績のない新鋭メーカーだったビハインドは大きく、ヨーロッパの市場で一時は「セリカはミッションが壊れる」というイメージが広まってしまったほど酷い状況だったと言われています…。

(当時は「勝ちたければミッションはヒューランドを使え」が常識でした…)
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そんなセリカGT–Fourでしたが一年半もかけてエンジンが決まってミッションも決まってくると、89年のオーストラリアラリーでユハ・カンクネン氏がついに優勝。 更に最終戦のRACラリーでは最終レグの折り返しあたりまで三菱ギャランVR–4と接戦を繰り広げながらカルロス・サインツ氏がトップを快走するも、氏の初優勝を目前にしてセリカのカーボンプロペラシャフトが走行中に折れてしまい、前輪駆動になってしまった結果 首位から脱落して痛恨の敗北を喫しました(以来、TTEでは駆動系で新開発の部品が届くと、他社ではせいぜい10回程度のところを200回以上もスタンディングスタートを繰り返して耐久テストするようになったというのは、その筋では有名な話です…)。
この時は初優勝を逃したサインツ氏が悔しさのあまり表彰台で男泣きに泣き、それを元チャンピオンのアリ・バタネン氏が慰めるという一幕があったと言われています(まぁどのみちランチア・ワークスが欠場していたこのラリーでもし優勝しても、初優勝の価値としてはちょっとね…)。

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この悔しさがサインツ氏を変えたのか翌90年にトヨタ社のエースドライバーに昇格した氏は、最も過酷だと言われるアクロポリスラリーでは直接対決でランチア・ワークスを破って悲願の初優勝を果たします(この時ゴールをくぐったセリカはまさしく満身創痍で、ミッションは1速と3速のギヤが摩滅してなくなっていてガラガラと異音を放っていて、タイヤは四輪ともバースト寸前でスチールベルトのコードが何mも飛び出してムチのようにビシビシと路面に叩きつけられながら走っており、その走りの壮絶さとサインツ氏の執念を物語っていたと言われています。 それを見ていたジャーナリスト達は祝福しつつ「勝利の女神がサインツに微笑んだのではなく、サインツの執念に微笑まされて顔が引きつっていたか苦笑いしていたのに違いない」と笑っていたのだそうです…)。
そしてその後も勝利を重ねて日本車による初めての年間ドライバーズチャンピオンに輝きました。

(後年、故オベ・アンダーソンが「ターマックのスペシャリストを探していたらスポンサーのマールボロ社が持参金付きで推薦してきた若手ドライバーだったので、実は始めはそれほど期待していなかった」と語ったサインツ氏でしたが…)
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実はセリカGT–Four(ST-165型)には「日本車で初のドライバーズチャンピオンを生んだマシン」という輝かしいアイデンティティの他に、「WRC史上最速のラリーカー」という一面があった事はあまり知られていないようです。

よく好事家の間では「Gr,BラリーカーこそがWRCの歴史の中でも突出して物凄く速かった」と思い込みたがる人がいるのですが、実はGr,Bラリーカーはエンジン開発ばかりが先行し過ぎてシャーシ性能の重要性がまだ認知されていない時代の産物だった宿命から、パワーを十分に速さへと活かせていなかったマシン達だったと言われています。
対照的にGr,Aラリーカーはレギュレーションの関係でGr,Bラリーカーのように極端な軽量化ができなかった事から、削れない車重を車体の剛性や強度の向上に活用するようになりました。 そしてエンジンパワーが400馬力を超えたあたりからGr,Aラリーカーの速さはGr,Bラリーカーに追いついてしまい、車種によってはこれを凌駕していったと言われています。

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当時のレギュレーションでGr,Aラリーカーについては「エンジン出力は300馬力まで」とされていたものの、車検時にわざわざシャーシダイナモで出力を測っていた訳ではないので、リストラクターが義務付けられる前年の89年頃の場合だと、セリカGT–Four(ST-165型)とフォードシエラRSコスワースの中でも最もパワーを発揮していたターマック仕様では、500馬力近い出力を発揮していたと言われています。

この評価がどこから出てきたのかと言いますと…
実は前述のアクロポリスラリーにはずーーーーっとコースが変更されないまま何年も使い続けられていたSSがあり、この区間のタイム等々からワークスチームがライバルのラリーカーの出力を大体算出できていたというのは、あの当時でも好事家の間ではわりと有名な話でした。
そして前述のサインツ氏が初優勝した時のグラベル仕様のセリカの出力は大体400馬力位だと言われており、ワークスマシンではグラベル仕様よりも高回転高出力型のターマック仕様エンジンの方が50〜100馬力ほど出力は高い傾向があることから、500馬力に近い出力だったと推定されています(翌年からリストラクターで出力が抑えられてしまったので、後年この時のタイムを超えるマシンはついに現れなかったとか…)

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コンストラクターズタイトルについてはランチア社が絶対王者の意地にかけて毎戦のように大量のワークスマシンとドライバー達を送り込んでいた為、サインツ氏の孤軍奮闘に近い体制だったTTEのセリカGT–Four(ST-165型)が獲得できたチャンピオンシップタイトルは、ドライバーズタイトルのみに留まりました(コンストラクターズポイントは全ての入賞車両に与えられるので、2位〜6位までを独占できたら優勝マシンの倍近いポイントを獲得できる為、ランチア社の物量作戦には敵わなかったのです…)。

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挑戦者だったセリカGT–Four(ST-165型)にもいつしか王者の風格が漂うようになっていきました。 WRC史上最も成功を収めたカテゴリーと評されるGr,Aラリーカーですが、その一つの象徴とも呼ぶべき一台がこのマシンなのではないかと思っています。

そんなセリカGT–Four(ST-165型)についてこの本では詳しく紹介されていますので、あの熱い時代を知る人には是非お薦めしたい一冊です。

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